今日は冷たい雨が降りましたね。
低気圧が続いていたから、今日一日体調が優れなかったり、
「なんか心が重たいなあ」「やる気が起こらないなあ」と感じた方も多かったかも。
ヨガヘヤは、今日のレッスンは少し運動量を控えめにしました。
いつもよりもゆっくり動き、その分いつもよりも深く感じて・・今日はそんなヨガでした。
こういう日は「あえてゆっくり過ごす日」と決めちゃうのも、
一つの自分の守り方かも知れないですね。
(「そんな悠長なこと言ってられないよ」って時もありますけれどね・・)
人間いつも同じ調子で進もうとするのはちょっと難しいかな〜。
現代社会はなんとも目まぐるしいですよね。
目まぐるしく進む周りにつられて、ついつい自分も早歩きになってしまう。
歩みを止めるとなんだか全てが駄目になってしまう気がして、
だから、疲労にも気付かないふりをしながら笑って頑張り続ける。
無意識の内に蓄積する力みが、次第に体も心もこわばらせる。
良くも悪くも人には順応性が備わっているから、
そんな日常の中に埋もれてしまうと
こわばっている事なんて当たり前になってしまう。
張り詰め続けていると、それも違和感がなくなって来てしまう。
滞っている不快感にさえ、段々と慣れてきてしまう。
でも放っておくと、こわばりは慢性化して可動域を狭めます。
体の可動域だけじゃない。
こころも、自分自身の行動も、生活の可動域も。
生活って、人生そのものじゃないですか。
人生の可動域、狭まっちゃうなんて悲しいですよね。
こわばることで、可動域が狭まる。
じゃあ可動域を広げるには?
「ゆるめる。」ですよね。
じゃあゆるめるにはどうしたら良いでしょうか?
これがヨガの基本「気付く。」です。
「気付き」とか「気付く」とか。
レッスンの中でも私がつい多用してしまう言葉ですが、やっぱりここでも出てきます。
全ての1歩は「気付き」からです。
たとえば、
まずどこが強張っているのか、
そしてそこが どう こわばっているのか。
こわばっていることに、
張り詰めていることに、
滞っていることに「気付く」事で初めて、
「じゃあどうしたら良いか」の選択肢が出てきます。
そうしてやっと次の行動につながるのですよね。
でも、気付くにはそれなりのアンテナも感覚も必要。
それがきっと「感性」や「感度」なのだと思います。
感性豊かに、感度高く自分をちゃ〜んと見る目と感覚を養うことで、
体も心も心地よいベストポジションを確保しながら柔らかく生きて行ける。
それって「豊かにhappyに生きること」に繋がるのだと私は信じています。
体と心のベスポジを知ること、すごーーーく大切だと思っています。
ヨガが皆さんに伝えようとしている事。
ポーズや呼吸法から得られる恩恵は多大なほどあるし、
それはヨガには絶対に外せない存在です。
でも最終的にそのもっと先にあることは、
「体と心が如何に穏やかで幸せに生きて行けるか」
あるいは「その為の術やツールを見つける感性を養えるか」
「豊かさや幸せに繋がる全ての事象への「気付き」の感度を高められるか」
そう言ったことなのです。
これって形で表現するには難しく、
言葉にするとなかなか一言では言い表せないものがありますが、
私はそれをヨガでのあらゆるシーンを通して
皆さんと分かち合ったり共感し続けたいと思っています。
ええっとだいぶ遠回りしてしまったので最初の話に戻りますが、
自分の置かれている環境由来でもそう、
体の周期由来でもそう、
今日みたいに気候由来でもそうだけど、
しんどいなあ😢と体や心がつぶやく時は、
その声を絶対に無視しないで、
一歩でも二歩でも足を止めて、ただ深呼吸してみて下さい。
胸を広げて肩を回してみて下さい。
もし急ぐ必要が無いのなら「今日はもうゆっくり過ごす日だ」とラベリングして
あえてゆるい自分で過ごす一日を作るのも良いと思う。
瞬間的にでもそこに生まれた余白に、自分を救う何かを見いだせると思います。
あるいはただ余白を感じることそのものが癒しとなります。
こんなふうな「自分との向き合い方」も、私はヨガに教えられている気がします。
皆さんも是非、ヨガの時間に体を通して得る気付きの感性を、
ヨガマットを降りた日常の時間の中でも生かしながら過ごしてみて下さい。
結構助けられることが沢山ありますよ。
ポーズを取りながら得る「無駄な力みを見つける感性」は、
日常の中では例えば上手なリラックスの仕方として生きます。
レッスン中での「人と比べることなく自分のペースを大切に守り続ける感覚」は
日常の中では例えばありのままの自分を受け入れ愛することにつながります。
ね。
ヨガと日常生活が優しくリンクすると、きっと人生のあらゆる面で、良い意味で楽に生きられるのだと思います。